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    大原家について

     備中倉敷の大原家は、元禄期に初代忠則が備前国児島郡片岡村(現、岡山市南区)から倉敷村へ移住したことに始まります。二代目は、忠則の次男忠之で、通称を与兵衛とし、以後、当主の通称は、与兵衛となりました。

     三代金基に至ると、民間の相互扶助組織である倉敷義倉に新義衆として参加し、また、倉敷代官から褒賞を受けるなどの事跡を確認できます。現在の地に居を構えたのは金基で、大原家住宅は、寛政7(1795)年に建築が始まりました。

     金基の跡を継いだ四代目好道は、蔵米取引や実綿問屋として活躍した後、分家の三男であった16才の壮平に家督を譲ります。隠居後の好道は、宗弥と号して茶を嗜みました。

     五代壮平は、家業に励み、倉敷村を代表する富豪へと成長すると共に、村政においても年寄・庄屋を勤めて明治を迎えました。壮平には男子がいなかったため、備前岡山丸亀町備中屋の三男孝四郎を養子に迎え、厳しく指導し、後継としました。

     明治15(1882)年に家督を継いだ、六代孝四郎は、更に家産を増殖し、岡山県内でも屈指の資産家となり、倉敷紡績所・倉敷銀行の頭取に就任し、近代産業資本家へと転身を遂げました。また、父壮平と共に師事した森田節斎から謙受の教えを学びました。

     七代目孫三郎は、父孝四郎より継承した倉敷紡績・倉敷銀行を発展させるのみならず、石井十次と交流して岡山孤児院を援助し、倉敷日曜講演を開催しました。更に、三つの科学研究所や倉敷中央病院の創設、倉敷絹織(現、クラレ)設立、大原美術館創業など、多彩な事業を展開しました。

     八代總一郎は、父孫三郎の各種事業を継承すると共に、倉敷レイヨン(現、クラレ)の経営に注力し、国産初の合成繊維ビニロンの工業化や人工皮革クラリーノの開発などを行いました。また、文化事業にも積極的に取り組み、倉敷民藝館・倉敷考古館の設立や高梁川流域連盟設立など、地元倉敷の発展にも努めました。